長井雅楽(ながいうた)、幕末の長州藩を生きた人物です。
必ず名前がでてきますが、実際にどのような人物だったかを知らない方も多いと思います。
尊王攘夷派により、暗殺を企てられるという場面で名前を目にすることが多いのではないでしょうか。
これだけですと、あまり良い印象を持っていない方も多いですよね。
実は、長井雅楽が行ったことを見ると、誰しもがその優秀さを認めるほどです。
ただ、大きく歴史に名前を残すことはなく、逆に長井雅楽と対立していたことで有名な吉田松陰の功績が讃えられています。
今回はそんな長井雅楽の生涯、そして吉田松陰との生き方の違いなどから学んでいきたいと思います。
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長井雅楽という最高に優秀な政治家
長井雅楽は長州藩の超がつくほどの名門の家柄に生まれました。
藩校明倫館で学び、若くからその有能さは際立っており、藩主も大いに頼りにする存在でした。
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そんな長井は開国派であり、「航海遠略策」という策をまとめ、藩、そして幕府にも提出しました。
航海遠略策とは、むやみに攘夷と言って外国を打ち払うのではなく、外国の力が優れていることを認めて、開国して外国の良いところを学び、日本の国としての力を高めよう、その上で力によって外国を遠ざけよう、対等に渡り合おうという策です。
いかがでしょうか?
ごもっともですよね。
そうです、長井が示した策は非常に理想的で、かつ攘夷よりもよっぽど現実的です。
しかし、長井は藩の重臣中の重臣です。
吉田松陰や桂小五郎、久坂や高杉などと違って、倒幕しよう、革命を起こそうという思想は根底からありません。
尊王攘夷派から見ると幕府を擁護するようにうつります。
そのため久坂玄瑞からは命を狙われることになります。
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一時は幕府にも認められた長井ですが、桜田門外の変以降、尊王攘夷派の力が高まると、長井は失脚することになり、最期は切腹と命じられます。
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出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
桂小五郎を救った長井雅楽
尊王攘夷派の久坂から命を狙われる長井ですが、桂小五郎との関係はまた違った面がありました。
桜田門外の変の後、桂小五郎が幕府に尋問を受けたことがありました。
もちろん桂が疑われてのことです。
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その際、長井は桂を釈放するように動いており、結果として桂は救われました。
ただそれは尊王攘夷派のリーダー格であった桂を助けることで、自分の命を守ることにつながるのではないかと考えたからでした。
いずれにしても、後の桂小五郎の活躍を考えると、長井の行動は大きな影響を及ぼしました。
長井雅楽と吉田松陰の生き方の違い
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長井と対照的に語られるのが吉田松陰です。
吉田松陰は根っからの革命家です。
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それに対して長井はあくまで長州藩の政治家であり、今いる立場からの政策論、行動です。
松陰も、外国から技術を学び、国力をつけようとする考え方は長井と同じですが、根本の人格や思想があまりにかけ離れているために相容れない2人でした。
2人を比べて感じる一番の違いが、意思を受け継ぐ者の存在です。
2人とも志半ばに亡くなりますが、松陰が育てた志士たちが成長し、活躍することで、松陰の思想や名前は後世に大きく語り継がれることになりました。
一方、長井は非常に優秀でありながらも、その意思を受け継ぐ者がいませんでした。
ただ、当時意見が対立した吉田松陰の門下生らも、後には長井の有能さや想いを感じ、その死を惜しんだと言います。
最後に
長井はと近くで「攘夷」と叫び、外国人を切りつけるような状況を見て、このままでは日本が危ない、長州を守らなければという気持ちでいっぱいであったはずです。
事実、長井が考えたように歴史は進みました。
そのような真っ当な正義を受け入れられずに最期は自決します。
長井の無念さを考えるとたまりません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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