久坂玄瑞、長州第一の人物と言われ、吉田松陰の松下村塾では高杉晋作と共に「双璧」と称された人物です。
しかし25歳という若さで亡くなったからか、どれほどの人物だったのか、何をした人物だったのかを知らない方も多いです。
今回は久坂玄瑞をあまり知らない方にその生涯をわかりやすくご紹介し、その生き方から学んでいただければと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。
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松下村塾の「双璧」久坂玄瑞(げんずい)とは
1840年、長州藩の医者の息子として生まれました。
母、父も兄も早くに亡くなったために、15歳の時に家督を継ぐことになります。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
その後18歳の頃松下村塾に入ります。
すぐに吉田松陰にその才能、優秀さを認められることになります。
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松陰から認められた久坂玄瑞は、松陰の妹、文(ふみ)と結婚します。
久坂が18歳、文は15歳の時です。
翌年、江戸への遊学を認められ、見聞を広めることになります。
しかし、ほどなくして師匠の吉田松陰が処刑されました。
久坂玄瑞は吉田松陰の意思を受け継ぐように長州藩の尊王攘夷派のリーダーとなって奔走することになります。
その頃、藩は公武合体論に傾きかけていましたが、久坂や桂小五郎らの働きも功を奏し持ちこたえます。
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吉田松陰の教えにある行動することを守り、次々の攘夷活動を進めます。
盟友高杉晋作と共に、イギリス公使館の焼き討ちを実行しました。
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高杉晋作との関係
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久坂玄瑞と高杉晋作は松下村塾で吉田松陰から一緒に学んだ仲です。久坂が高杉を誘ったと言われています。
松陰はふたりの才能を特に高く評価し、さらに力を高めるためにふたりを競い合わせました。
高杉は身分の高い藩士で、それまで自信家であったと言われていますが、松陰の教育、そして久坂の存在により高杉は猛烈な勉強家になります。
松陰の死後もふたりの友情関係は続き、高杉晋作にとって久坂玄瑞は唯一頼れる存在であったことがわかる手紙が残っています。
久坂玄瑞の最期
過激な攘夷活動を続ける長州藩ですが、その勢いが急変する事件が起きます。
八月十八日の政変です。
それによって長州藩士も、攘夷派の公家も京都から一掃されることになります。
それでも志士たちはあきらめず、そんな中起きるのが池田屋事件です。
追い詰められた長州藩は武力で訴えようとする主張が大きくなっていきます。その中心が来島又兵衛、真木和泉らです。
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久坂玄瑞は反対しますが、最終的には共に決起するかたちとなり、蛤御門の変(禁門の変)が起き、長州藩は敗れます。
久坂は自決して亡くなりました。25歳の生涯でした。
最後に
久坂玄瑞の生き様は盟友高杉晋作はもちろん、桂小五郎や西郷隆盛らにも影響を与えました。
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惜しい死ではありましたが、明治維新の1つの大きな原動力になった存在でした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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