幕末、明治維新を語る上で欠かせないのが長州藩です。
明治維新の中心的な役割を果たした藩です。
その幕末の長州藩を語る上で欠かせない人物が来島又兵衛です。
長州藩が大事な局面で桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らと関わっており、まさに時代を動かした人物と言えます。
今回は長州藩士、来島又兵衛の生き方から学んでいきたいと思います。
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来島又兵衛(きじままたべえ)とは
長州藩に生まれ、大柄に育ちました。
剣術や槍術、馬術にも長けており、戦国時代の武将のような風貌であったと言います。
来島又兵衛は武術だけではなく学問に優れており、文武両道の人物でした。
小説やドラマに出てくる来島は「血気盛ん」「気性が激しい」というイメージがありますが、その性格は若い頃からであったと言います。
尊王攘夷の志士として数々の戦いに参加します。
高杉晋作の奇兵隊に感化され、自らも町民や農民などから構成する遊撃隊を組織して総督に就きました。
幕末が進むと、八月十八日の政変が起こり、長州藩は危機的な状態に陥ります。
そして、長州藩、来島又兵衛の人生を決定づける事件が起こりました。
池田屋事件です。
多くの長州藩士が禁門の変で命を落としますが、もともと戦うことが目的ではなく、朝廷に対して陳情するのが目的でした。
その軍の指揮を任されたのが来島又兵衛です。
しかし、この時期の長州藩に対する幕府、朝廷、世間の目は厳しく、兵と一緒に京に行けば戦いと捉えられて、陳情どころではなくなるのは明白でした。
桂小五郎をはじめ、軍を率いて京に行くことに反対しました。
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来島又兵衛と高杉晋作
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藩の意向に来島又兵衛は納得しませんでした。
脱藩してでも行くと言って聞きません。
その説得役として藩に命じられたのが高杉晋作でした。
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高杉晋作は3日かけて来島又兵衛を説得しますが、来島は断固として納得しません。
そこで高杉は、京の情勢を見に行くとして藩を飛び出します。
京に行った高杉ですが、実際長州に対する風向きを肌で感じます。
自重することを説得しようと藩に戻りますが、藩の状況も変わっており、来島に賛同する者も増えており、逆に高杉が攻められることになりました。
ついには高杉は脱藩したとして捕えられてしまいます。
もともと来島又兵衛と高杉晋作は馬が合う関係であったと言います。
高杉は来島のように自分が正しいと思ったことを貫く生き方を好みました。
禁門の変(蛤御門の変)で散る
ついに来島又兵衛は2000の兵を率いて京に上ります。
久坂玄瑞はぎりぎりまで来島を説得したと言われています。
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どう考えても2000の兵力では勝てず、また長州藩として危機的な状況がさらに増すことを久坂は理解していました。
しかし真木和泉が来島に同意することで進軍が決定します。
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久坂としては結果はわかっていても、決断せざる負えない状況です。
その時の久坂の気持ちを想像するとたまりません。
急先鋒はもちろん来島又兵衛です。
遊撃隊600を率いて進軍しますが、幕府軍の圧倒的な兵力で敗れることになります。
久坂玄瑞25歳、入江九一28歳など、約400名の長州藩士が戦死しました。
来島又兵衛は48歳でした。
墓は京都霊山護国神社にあります。
来島又兵衛の子孫
来島又兵衛は、宇多天皇の末裔と言われており、出雲国の大名の子孫であったそうです。
血筋がすごいですね。
来島の妻は、たけと言います。
2人の間には息子がいて、来島亀之助(後に森清蔵と改名)です。
森清蔵は井上馨の妹と結婚しました。
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最後に
来島又兵衛は当時の志士としては長生きした生涯でした。
自分よりも若く、志を持って死んでいく同志を見て、来島はたまらない心情を持っていたと想像できます。
その同志の志に少しでも報いたい、早く報いたいという気持ちがあったようにも思います。
若く、尊い命を多く失った禁門の変ですが、その志は後に生きる同志に引き継がれ、明治維新の1つとなったことは間違いありません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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来島又兵衛の、正しいと信じたことは命を懸けても遂行するといふ生き方に賛同します。実は私はある人から、「あなたは来島又兵衛の生れ変りです」と告げられました。ですから、ある日、又兵衛が戦死した京都御所の蛤御門に行ってみました。その中に大きな木があり、その下で又兵衛は、薩摩の兵隊に銃で撃たれて死んだのです。なんだか懐かしい気持ちでした。戦死から80年経った昭和20年4月17日に、私は鹿児島に生まれました。しかし私の祖父までは、京都の生れです。私が戦後育ちとは言へ、憲法改正運動に取り組んでゐるのも、又兵衛だった時からの信念が継続してゐるからかも知れません。