軍人としては日本の陸軍の基礎を構築して元帥陸軍大将を務め、政治家としては内閣総理大臣を務めた山縣有朋。

 

これほどの経歴を持つ人物はそうはいません。

 

さぞかし人望もあり、地位も名誉も得た人物だろうと思うかもしれませんが、実は山縣有朋は非常に嫌われており、天皇にも政治家にもそして国民からも非難を浴び、嫌われた人物でした。

 

一方で、好んで庭園を造り、東京にいる人であれば一度は聞いたことがあるだろう目白の「椿山荘」を造ったのも山縣有朋です。

 

そんな山縣有朋に迫ってみたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

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誰も来ない国葬?

なぜそこまで山縣有朋は嫌われたのでしょうか。

山縣有朋

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

内閣総理大臣に就いた山縣有朋は、日本初の帝国議会をとりしきります。
その際「超絶主義」を掲げ、軍備拡張に舵を取り、邁進しました。

 

政党政治を嫌い、自由民権運動を弾圧したため、そのやり方に反発する政治家に強く嫌がられました。

 

特に山縣有朋は政党政治を促進する大隈重信のことを嫌いました。
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そんな犬猿の仲であった山縣有朋と大隈重信ですが、皮肉なことに2人が亡くなった時に、2人がどう思われていたかがわかることが起こります。

 

大正11年、1922年2月1日に亡くなった山縣有朋ですが、2月9日に日比谷公園で山縣の国葬が開かれました。

 

国葬を開かれるほどの人物であった山縣ですが、その国葬には陸軍関係者や政治関係者が参列した以外、一般の国民はほとんど参列しませんでした

 

実はその約1ヶ月前に大隈が亡くなり、同じ日比谷公園で国葬が開かれましたが、その時は約30万人の国民が参列して、道路にまで行列ができるほどの「国民葬」であったそうです。

 

国葬が皮肉にも山縣有朋の不人気を象徴するようなものになってしまいました。

 

また、山城屋事件など、山縣にはお金に汚いイメージがついてまわったのも嫌われた要因です。

 

山県有朋の別荘は国の名勝?

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山縣有朋は茶道や和歌などの文化活動にも積極的な一面があり、中でも庭園造りには熱心でした。

 

土地を買っては庭園を造り、当時の庭園としては代表的なものを造り上げました。
中でも、京の椿山荘、京都の無鄰菴庭園、小田原の古希庵庭園は山縣三名園と称されます。

 

京都の無鄰菴庭園は、山縣の別荘の庭園で、京都に寄贈されて今では国の名勝とされています。
山縣の庭園がどれほど本格的であったかがわかります。

無鄰菴庭園

最後に

嫌われに嫌われた山縣有朋ですが、周囲の評価を考える余裕がないほどに国事に奔走したとも言えるのでしょうか。

 

しかしそれほど嫌われたにも関わらず、軍人としてのトップ、政治家としてのトップと、通常では手に入らないほどの地位を得ました。山縣有朋には並ではない能力があったことが容易に想像できます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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