日本近代化の基礎を創った伊藤博文、その最期は暗殺されて生涯を終えます。

 

1909年、明治42年10月26日、場所は中国満州の中心地、ハルビン駅で事件は起きました。

 

犯人はその場で取り押さえられ、裁判の後に処刑されました。
しかし、犯人はまた別にいるのではないかという説があり、その真相はまだはっきりしていません。

 

今回は伊藤博文の暗殺事件について迫っていきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

 

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伊藤博文の死因は暗殺

その日、伊藤はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するために、中国満州の中心地ハルビン駅に降り立ちました。

 

駅に降り、ウラジーミル・ココツェフと握手した直後に発砲され、68歳で亡くなりました。

 

撃ったのは朝鮮人の民族運動家である安重根(あんじゅうこん)でした。

 

安重根は伊藤だけではなく近くにいた同行者も撃ち、その場で捕えられて日本に身柄を引き渡されます。
翌年早々に死刑が決まり、処刑されました。

 

安重根は韓国では英雄扱いされており、記念碑が建っており、切手にもなっております。

安重根

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/


犯人は安重根ではない?

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伊藤の目の前で撃ったはずの安重根が犯人ではないとはどういうことか。
日本とロシアの要人の会談ですので、その場には大勢の人たちがいました。
伊藤が撃たれるところを見ていたはずです。

 

そうです、その同行者が二階に他の狙撃手を目撃したという証言をしているのです。

 

傷口も安重根が撃った場所からのものではなく、高いところからの傷であることがわかっていると言います。
同行者の証言と一致しています。

 

また、伊藤の遺体に残っていた銃弾が、安重根のものとは違うということまでわかっています。

 

伊藤の遺体に残っていたのはフランスが使っていたカービン銃の銃弾で、安重根が所持していたブローニング拳銃の銃弾ではありませんでした。

 

しかも安重根は伊藤の顔を知らなかったと証言していると言います。
一国の要人を暗殺するのにその本人の顔を知らないとは相当不可解です。

 

伊藤博文は韓国併合に反対?

日本が韓国を支配するために韓国統監府が設置され、伊藤博文が初代韓国統監に就任しました。

 

この時期韓国併合の計画は進んでおり、それに対して安重根が反対していました。
祖国の独立を守るために伊藤を暗殺したと言えます。

 

しかし、そもそも伊藤は韓国併合に消極的で、反対するようなかたちで韓国統監を辞任し、その頃は枢密院議長を務めていました。

 

伊藤は韓国を支配するのではなく、一定の保護をしながら独立させるという関わりを提言していました。

 

伊藤は韓国民の能力を認めており、また当時の韓国は困窮していたため、その韓国を併合させることは日本にとって得策ではないと考えていたようです。

 

ただ消極的ではあったとはいえ、国としては決まった事項ですので、伊藤は前に進めていたことは事実です。
そのことが暗殺に向かわせたのかもしれません。

 

当然ながら伊藤暗殺後も併合の話は進み、日韓併合が実現されました。

 

真犯人はロシア?

犯人が安重根ではないとすると誰が犯人なのか。

 

その真相ははっきりしていませんが、ロシアが関与していたのではないかという声があります。

 

伊藤は日英同盟を結び、日露戦争の終結を早めて日本を勝利に導いた過去がありました。
ロシアからすると気持ちの良い相手ではなかったようです。

 

また、日露戦争で一応の決着はつきましたが、まだ決めなければならないことは山積みであり、その交渉上伊藤が邪魔だったのではないかという見方もあります。

 

伊藤博文のお墓

11月4日、日比谷公園で国葬が行われました。

墓は東京都品川区の西大井駅近くに伊藤博文墓所があります。

 

最後に

ここまで犯人が安重根ではないのではないかという証拠、疑惑があるにも関わらず真実がわかっていないことは不思議に感じます。

 

当時の日本にはその真実を明かせない相当な理由があるのかもしれません。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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