大森兵蔵(おおもりひょうぞう)。
日本に初めてバスケットボールとバレーボールをアメリカから持ち込んで広めた人物です。

 

また、日本初のオリンピック(ストックホルム)に監督として参加しました。
ただその時大森兵蔵の体は限界でした。まさに命がけで日本初の偉業を成し遂げた男が大森兵蔵です。

 

今回は日本のスポーツに多大なる貢献をした大森兵蔵の生き方から学んでいきます。
どうか最後までお付き合い下さい。

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スポーツを学びに留学した大森兵蔵

大森兵蔵は明治6年(1876年 )に岡山県に生まれました。

 

同志社普通校(現在の同志社大学)に入学しますが、途中で退学して東京高等商業高校(現在の一橋大学)に入学します。

 

その後スタンフォード大学経済学部に進み、マサチューセッツ州にある国際YMCAトレーニングスクール(現在のスプリングフィールド大学)に入学しました。

 

そこで最先端のスポーツ教育や体育学を学びます

 

YMCAとは、キリスト教青年会(キリストきょうせいねんかい)、通称YMCAは、キリスト教主義に立ち、教育・スポーツ・福祉・文化などの分野で様々な事業を展開する、150年以上の歴史を持つ世界的な組織である。世界的にはYMCAが通用名である。

日本では、1880年(明治13年)に初めて東京にYMCAが設立されて以来(東京YMCA)、全国の主要な都市・大学にYMCAの活動拠点がある。

引用:wikipedia

 

まだ武士の名残りある時代です。スポーツを学びに留学するというのはかなり珍しい存在であったことが想像できます。

大森兵蔵の留学時代の写真
出典:gllc.or.jp

アメリカの令嬢と国際結婚!

大森兵蔵は明治40年(1907年)、アニー・シェプレー(後に日本に帰化して大森安仁子)と国際結婚しました。

 

国際結婚も珍しかったでしょうが、20歳差という歳の差も際立ったはずです。
大森兵蔵が30歳、アニーが50歳の結婚でした。

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帰国後はバスケットとバレーを指導する

明治41年、1908年に国際YMCAトレーニングスクールを卒業した大森兵蔵は、東京YMCAに就職します。

 

東京YMCAの初代体育部主事に就任し、アメリカで学んだバスケットボールとバレーボールを指導して広めるのです。

 

当時の日本には、バスケットやバレーのように、室内でできるスポーツがありませんでした。夏は外で走ったり、野球やサッカーとできるスポーツはありましたが、冬や雨の日などでもできるバスケットやバレーはまさに日本が必要としていたものでした。

 

アメリカで生活しながら彼らの体格を目の当たりにした大森兵蔵は、日本人の体格の向上を目指しました。子供たちが運動できる施設を建設することを提言しましたが、受け入れてはもらえませんでした。

大森兵蔵の写真
出典:gllc.or.jp

有隣園を設立して日本人の体格向上に寄与

意見を受け入れてもらえなかった大森兵蔵は、東京YMCAを退職し、私財で有隣園を設立しました。

 

有隣園は、子供のうちから運動できるような、今でいう遊具付きの公園、また幼稚園や図書館も一体となった児童施設でした。

 

大森兵蔵が目指した日本人の体格の向上という目標が、いかに本気であったかがわかります。大森兵蔵は妻アニーと一緒に有隣園を運営しました。

 

日本初のオリンピック参加に貢献

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明治44年(1911年)、 大日本体育協会(日本体育協会→日本スポーツ協会)が設立されました。柔道の父嘉納治五郎が会長となって発足しました。

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目的は日本のオリンピック参加のためです。
当時はスポーツに理解のない時代であり、文科省などの政府はオリンピックに協力的ではありませんでした。そのため、日本オリンピック委員会というかたちで組織を開始させたのです。

 

大森兵蔵は当時の日本ではトップと言っていいほどのスポーツの知識がありました
そんな大森を嘉納治五郎は必要とし、オリンピック参加に向けてと一緒に奔走するのでした。

 

大森兵蔵は羽田運動競技場の設計・整備を任されます。大森の最新で豊富な知識が活かされました。羽田運動競技場ではオリンピックに向けた予選会が行われます。

 

大日本体育協会は現在は日本スポーツ協会となり、スポーツ少年団の発展などの活動を通して、日本のスポーツに貢献し続けています

 

命がけのストックホルムオリンピック

大正元年(1912年)、ついに日本は初めてオリンピックに出場します。
スウェーデンで行われたストックホルムオリンピックです。

 

日本はマラソンの金栗四三と、短距離の三島弥彦の2人が出場しました。

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大森兵蔵は日本選手団監督として参加することになりました。

 

そもそも当時、海外に行ったことがある人物が少なかったのです。大森の留学経験とスポーツへの知識は、それだけ貴重な存在だったのです。

 

ストックホルムには妻のアニーも一緒です。
ストックホルムまでは17日間という長旅でした。過度な疲労からか、大森は持病の結核が悪化してしまいます。ストックホルムに到着した後も寝たきりとなってしまいます。

 

大森兵蔵はオリンピックが終わっても、ストックホルムで静養しますが、回復すると妻の親戚に会いにアメリカに渡ります。

 

ただアメリカでも体調が悪化してしまい、1ヶ月ほどの入院の上亡くなります。
大正2年(1913年)36歳の生涯でした。

 

大河ドラマいだてんの大森兵蔵役は竹野内豊さん

いだてんの大森兵蔵は竹野内豊
出典:ken-on.co.jp

大河ドラマいだてんの大森兵蔵役は俳優の竹野内豊さんが演じられます。

 

ベテランで多くの人気作品に出演してきた竹野内さんですが、意外にも大河ドラマは少なく、過去に出演したのは利家とまつだけです。

 

アメリカ帰り、アメリカ人と結婚という大森兵蔵のイメージと重なります。
キザでありつつ熱い心を持った大森兵蔵をどう演じられるのか楽しみです。

 

最後に

何度も学校に通った大森兵蔵ですが、自分の道を妥協せずに追求する性格であったのではないかと想像してしまいます。

 

実際に大森が得た知識と経験は日本の財産となり、今に伝わっています。
私たちは、バスケットやバレーボールと通して、スポーツを通して体力を養い、様々なことを学ぶことができています。はかり知れない貢献です。

 

学生の頃バスケットボールをしてきた私、スポーツ少年団に関わっていた私の父、どこか大森兵蔵との縁を勝手に感じています。

 

大森兵蔵の生き方は、当時の時代背景を考えると、留学や結婚、そして志す仕事は周囲の反対を受けることが多かったのではないかと思います。

 

しかし大森はそんな苦難を乗り越え、確実に足跡を残しました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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