あの時代に徳川幕府に山岡鉄舟という幕臣がいたことは、日本にとって本当に幸運だった、心からそう感じます。
徳川幕府の終焉は、江戸城無血開城という多くの命を救うかたちで実現しました。
西郷隆盛と勝海舟のふたりの会談で実現した。
それは間違いないのですが、それはすでに山岡によってお膳立てされた結果でした。
勝との会談の前に山岡は西郷と対峙し、そして見事に江戸を守ることができたのです。
その行動はまさに命がけでした。
西郷も山岡も命がけで江戸を、徳川を守ったのです。
そんな山岡の生涯をたどると見えてくるのが、武士道精神を極めた、本物の武士の姿です。
惚れ惚れする真の男、それが山岡鉄舟です。
・山岡鉄舟の生涯や凄すぎる死に様
・西郷隆盛との決死のやり取り
・山岡が残した名言やエピソード
今回は山岡鉄舟の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。
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幕臣山岡鉄舟とは?西郷隆盛より身長が高い?
山岡鉄舟は1836年に生まれました。
同じ年に生まれたのが坂本龍馬です。西郷より8歳年下ということになります。
関連記事:坂本龍馬のすべて!英雄の魂に熱狂しよう~名言や子孫、最後の暗殺まで
徳川家康の時代から続く旗本に生まれ、勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の3人を幕末の三舟と称します。
山岡は身長188センチ、体重105キロと堂々とした体格の持ち主でした。
西郷隆盛が180㎝ですので、この当時としては稀にみる巨漢と言えます。
剣は神陰流や北辰一刀流を学び、槍は樫原流槍術を学ぶなど、武道の達人でした。
青年期は清河八郎などと浪士組に加わったこともあり、謹慎処分を受けたこともありました。
その後は一層剣術を極めます。山岡鉄舟は剣術だけではなく、禅や書道にも熱心で、とことん追求する人物でした。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
西郷隆盛との静岡での会談
幕末が差し迫ると、幕府側はかなり厳しい決断を迫られることになります。
德川慶喜によって大政奉還がなされた後も、新政府と幕府側との関係や手続きは決してスムーズには進みませんでした。
関連記事:徳川慶喜【大政奉還の真実】二条城での大英断はなぜ行われたのか?
また、江戸城の無血開城に尽力した人物は勝や山岡だけではありません。
薩摩藩島津斉彬の娘である天璋院篤姫も江戸を守るために必死に働きました。
関連記事:【篤姫と和宮の関係と絆】幕末最大の偉業を成し得た2人の気高い女性
1868年、江戸城無血開城が実現しますが、冒頭書かせていただいたとおり、勝海舟と西郷隆盛との会談の前に、山岡が幕府の意思を伝える役として西郷と会っています。
西郷隆盛の生涯をまとめていますのでご覧下さい。
関連記事:西郷隆盛(吉之助)の生涯!妻や子供、子孫は?偉大な名言と壮絶な最後
勝海舟の指示によって、山岡鉄舟は敵陣に一人乗り込むかたちで静岡に向かいます。
山岡は困窮しており、剣を持っておらず、友人い借りて江戸から駿河、現在の静岡まで歩いていきました。
「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」
山岡鉄舟の堂々とした姿が目に浮かぶようです。
勝の使いできた山岡の会談に西郷は応じました。
山岡鉄舟と西郷隆盛の会談跡地(静岡)
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
ここで西郷は条件を出します。
・江戸城を明け渡す。
・城中の兵を向島に移す。
・兵器をすべて差し出す。
・軍艦をすべて引き渡す。
・将軍慶喜は備前藩にあずける。
この最後の条件に対し、山岡は断固反対して応じません。
西郷も朝命であることを説きますが、山岡鉄舟は西郷隆盛にこう伝えます。
もし薩摩藩の殿様が同じような立場になったら、西郷も自分と同じように反対したはずだ、決して受け入れないはずだ。
西郷も簡単には決断できなかったはずです。
薩摩、長州のみならず、多くの声や命が肩にかかっていました。
決死の覚悟で説得する山岡の言い分に西郷は応じ、慶喜の身は守ることを約束しました。
この時山岡鉄舟は涙したといいます。山岡はどのような気持ちだったのでしょうか?
必ず江戸守る、絶対主君徳川慶喜を守る、この2つを必ず守り抜く覚悟であったことが伝わってきます。
その後、西郷と勝との間で会談が行われ、無事に江戸城の引渡しが実現されました。
西郷隆盛は山岡鉄舟をこう評価しています。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」
山岡鉄舟は明治天皇も信頼を寄せる存在
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新政府が樹立された後、幕臣であった多くの者は要職に就くことができませんでしたが、山岡はそうではありませんでした。
静岡藩権大参事、初代茨城県知事などを歴任します。
敵ではあったものの、山岡個人の力や信頼が高かったことがわかります。
また、西郷の推薦で10年という期限付きで明治天皇の侍従になりました。
誠実で頼りになる山岡鉄舟を明治天皇は気に入り、信頼を寄せたといいます。
山岡鉄舟が明治天皇の侍従になることは西郷が切望したことですから、ふたりの関係は友情、盟友と言える関係であったことがわかります。
明治18年には一刀正伝無刀流を開祖し、人を斬るための剣術ではなく、心身を鍛錬するための剣術を、生涯を通して伝えました。
現在でも山岡鉄舟杯が開催されており、山岡の剣の精神は受け継がれています。
明治21年、1888年に胃がんのため53歳で亡くなりました。
最期は皇居に向かったかたちで結跏趺坐をし、そのまま亡くなりました。葬儀には5000人が訪れたといいます。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
山岡鉄舟の3つの名言
山岡は多くの言葉を残していますが、厳選させていただき3つご紹介させていただきます。
もののふ(武士)というものは、
出所進退を明らかにし、
確乎として自己の意志を決した以上は、
至誠もって一貫するのが、
真の武士でまた武士道でもある。
山岡はこの言葉のとおりの武士道精神を持って生き抜きました。
山岡の意志、覚悟、誠実さ、それらによって西郷隆盛の心は動きました。
金を積んでもって子孫に遺す。
子孫いまだ必ずしも守らず。
書を積んでもって子孫に遺す。
子孫いまだ必ずしも読まず。
陰徳を冥々の中に積むにしかず。
もって子孫長久の計となす。
禅を極めた山岡鉄舟にしか語れない言葉であるように感じます。
山岡は質素倹約を生涯に渡って貫きました。
言葉としてはわかっても、なかなかこの言葉を本当の意味で体得することは容易ではありません。
「徳」を語るに値する偉大な人物であった山岡鉄舟の言葉だからこと響きます。
晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
もとの姿は 変わらざりけり
簡単な言葉ですが、こちらを選ばせていただきました。
「真の武士、真の人間、真の自分」
これらを追い求め、考え抜き、実行した山岡鉄舟は、やはり常に自分に厳しく、鍛え上げていたことが伝わってきます。もとの姿は簡単に変わらないからこそ、常に厳しく鍛錬しなければならないことを教えています。
また、今風で言うならば「自分らしさ」のようなことを意味しているとも解釈できます。
上記引用:http://iyashitour.com/archives/36065/2
山岡鉄舟は書の名人でもあった
剣術、槍、禅、どれをとっても達人であった山岡は、書道も秀でていました。その努力、探究心に驚きます。
山岡の書は、山本海苔店の商品や、銀座にあるパン屋「木村屋」の看板にも書かれおり、多くの書が今に残っています。
山岡鉄舟の墓
山岡は国事に殉じた人々を弔うために、明治16年に全生庵を建立しました。
そこに山岡も眠っています。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
全生庵
東京都台東区谷中5-4-7
日暮里駅から10分、千代田線千駄木駅5分
大河ドラマ西郷どんの山岡鉄舟役は藤本隆宏さん
2018年の大河ドラマ西郷どんで山岡鉄舟役を演じるのが、俳優の藤本隆宏さんです。
藤本さんは、ドラマ仁で西郷隆盛役を演じました。あの太い声と、堂々とした体格、顔つきは山岡役にぴったりです。
最後に
山岡鉄舟が亡くなったとき、「山岡がいない世界なんて魅力がない、生きている意味がない」とのことから、山岡の後を追って亡くなった方がいました。
どれほど高潔な人だったのか、そこまで思われるほどの優しさや温かさを持った人にはどうすればなれるのか。
そんなことを考えてしまいます。
生き様から死に様、その凄さや偉大さは語りつくせないほどのものです。
紛れもなく明治維新の立役者であり、真の武士であった山岡鉄舟の生涯に心から畏敬の念を抱きます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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