坂本龍馬の妻、お龍(おりょう)。楢崎龍(ならさきりょう)。

 

おりょうは「京美人」と称されることが多く、さすが英雄である坂本龍馬が結婚するだけあると思ってしまいます。
結婚後長崎や下関では龍馬と共に暮らし、おりょうも幸せな生活だったろうと想像できます。

 

一方で、龍馬の死後のおりょうは転々とし、淋しい最期であったと言われることも多い女性です。

 

龍馬との結婚生活は実は2年弱と短く、またこの時期の龍馬は忙しく飛び回っており、一緒に過ごせた時間はかなり短かったはずです。

 

今回は坂本龍馬の妻、おりょうの人生について学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

 

坂本龍馬についてはこちらに詳しくまとめています。
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坂本龍馬とおりょうの出会い

本名は楢崎龍(ならさきりょう)といい、京都で生まれ育ちました。
父は医者で、皇族も担当する名医でした。

 

楢崎家は茶道や華道を習うような裕福な暮らしぶりであったようです。
しかし父の楢崎将作が亡くなると生活は苦しくなります。

 

父の楢崎将作は勤王活動を行っており、脱藩浪士などの面倒をみていました。
龍馬もお世話になっており、そこでおりょうと出会っています。

 

おりょうは5人兄弟の長女として、家族を養うために奮闘していました。
妹が借金取りに連れて行かれ、女郎にさせられるところを、おりょうが刃物を持って助けたというエピソードは有名です。

 

そんなおりょうを龍馬は懇意にしていた伏見の寺田屋のお登勢におりょう一家の面倒を依頼します。
お登勢はおりょうを養女として受け入れます。おりょうは寺田屋で働くことになります。

 

龍馬は寺田屋を定宿としていたので、寺田屋を通してふたりはお互いを深く知るようになりました。

 

龍馬が長州藩の三吉慎蔵といた際に襲撃を受けた寺田屋事件では、入浴中のおりょうが裸のまま龍馬らのいた二階に駆け上がって知らせたことで、龍馬らは危機一髪助かったことは有名です。

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結婚と鹿児島・霧島への新婚旅行

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寺田屋事件でケガを負った龍馬は、薩摩藩邸で療養します。
おりょうは看病を続け、その期間を通してさらにふたりの絆は深まり、結婚することになります。
龍馬が30歳、おりょうが24歳の時です。

 

その後、ふたりは龍馬の療養を兼ねて鹿児島・霧島に新婚旅行に行きます。

 

鹿児島では、長期間温泉で傷を癒したり、また小松帯刀や西郷隆盛の自宅を訪れるなどして、ふたりにとっては最初で最後の落ち着いた時期であったかもしれません。

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坂本龍馬の死後のおりょう

龍馬が暗殺された日、おりょうは血まみれの龍馬を夢にみたそうです。

 

その頃おりょうは海援隊の拠点である下関にいました。
おりょうは髪を切り、仏前に供え号泣したと言われています。

 

寺田屋事件で一緒であった三吉慎蔵にしばらくお世話になりますが、龍馬の土佐の実家が引き取りました。
しかし馴染めなかったのか3ヶ月ほどで龍馬の家を出ています。

 

その後海援隊のメンバーの家にお世話になり、京都のお登勢のところにもいました。
龍馬と親交があった海援隊や薩摩藩士などを頼りに東京にできますが、なかなか落ち着くことはありませんでした。

 

勝海舟に料亭を紹介され、数年間働きますが、やはりそこでもあまりいい顔はされなかったようです。

 

その後西村松兵衛と再婚し、西村ツルと名前を改めて横須賀に住みました。

 

酒の量も増え、酔うと龍馬の妻であったことをよく口にしていたそうです。アルコール依存症であったとも言われています。

 

その後おりょうの妹も一緒に住むことになりますが、夫と妹が男女の仲になり夫と一緒に家を出ていってしまいました。

 

最期、おりょうは脳卒中で66歳で亡くなります。

 

おりょうの写真

おりょう

出典:https://bakumatsu.org

明治に入り、浅草の写真スタジオで内田九一が撮影写真と言われています。
内田九一は明治天皇の写真を撮るなどする有名写真家です。

 

おりょう

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

晩年の写真で、亡くなる1年ほど前に東京二六新聞に載った写真です。
龍馬の本である「汗血千里駒」が出版されてからは、おりょうは取材を受けることがありました。

 

おりょうのお墓と性格

おりょうのお墓は横須賀市の信楽寺にあります。 
おりょうが亡くなってしばらくしてから建てられています。

 

土佐の田中光顕が援助して建てられました。
2人目の夫も、坂本家もお墓を建てることはなかったようです。
龍馬の死後はご覧のとおり、おりょうは転々としており、幸せな暮らしぶりには感じられません。

 

龍馬の生前からおりょうを良くしる海援隊のメンバーの中には、おりょうを良く思っていないことを明言する者もいました。

 

龍馬はおりょうのことを、面白い女性と言って結婚しましたが、他の人からは男女問わず毛嫌いされるようなところがあったことは確かなようです。
話を聞かず、愛想がない点があり、周囲からは受け入れがたい女性でした。

 

最後に

おりょうが晩年、酔うと坂本龍馬の妻であったということを口にしていたということから、おりょうとしては最期まで龍馬を愛していたことがわかります。

 

また、それは龍馬のことを忘れられていないということであり、おりょうが一人の人間として生きる上で非常に悲しいことだったように感じます。

 

おりょうの人格や、どうして毛嫌いされてしまうのか、その点は考えてもはっきりしたことはわかりませんし、想像で話すのは良いことではありません。

 

しかし、前を向いて生きるには、きっとどこかで気持ちの整理をすることが大切なことであると思います。
もちろんそれは私たちにとっても同じことが言えます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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