佐賀の七賢人にも数えられ、北海道開拓の父と呼ばれる島義勇。

 

その生き様は使命感と開拓者精神に溢れ、心が揺さぶられるほどの熱を感じます

 

「島義勇」、名前すらその熱さ、男らしさを感じるのは私だけではないはずです。

 

今回は島義勇の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

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島義勇(しまよしたけ)とは

島義勇は佐賀藩に生まれました。
藩校弘道館で学び、その後諸国を遊学して藤田東湖らに尊王攘夷を学びました。

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楠公義祭同盟にも参加し、副島種臣、大隈重信、江藤新平らと交友しました。
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その後、島義勇は箱館奉行堀利煕の側近を命じられます。
この時の働きが島の今後を大きく変えました。

 

島は蝦夷地と樺太の調査を行いました。
北海道中を歩いてみて回り、「入北記」を作成しました。

 

藩に戻ると軍艦奉行に就き、下野鎮圧軍大総督軍監として新政府に貢献しました。

 

札幌で北海道開拓に従事した島義勇

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明治2年、佐賀藩主が蝦夷地開拓の責任者に任命されると、島義勇は開拓使判官を命じられ、北海道に渡ることになります。

 

野原状態であった札幌を本拠地として、まさに道なき道を突き進む働きをします。

 

島は世界一の都」を造ることを掲げ、京都を参考にした壮大な都市計画を策定します。

 

当然開拓には莫大な費用がかかります。
しかも北海道は寒いため特にかかり、そこに凶作も重なり費用に苦しみます。
予算面などで衝突して解任されました。

 

初代秋田県権令に

その後、島義勇は明治天皇の侍従に就きますが、ほどなくして明治5年に初代秋田県権令に命じられます。

 

島の開拓者精神はここでも発揮します。
八郎潟干拓の開拓を提言し、政府と衝突するかたちになって解任されることになりました。

 

佐賀の乱で斬首刑に

藩に戻ると元士族の不満や怒りは頂点に達していた頃でした。

島は江藤新平とともにリーダーに担がれ、佐賀の乱を起こすことになります。
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最期は斬首刑、さらし首とされました。

 

北海道神宮境内に島義勇の銅像が建っています。

 

「島義勇伝」漫画にもなる

島義勇は北海道民に愛され、それは後世まで続きました。

 

島の功績と讃え、その生涯は漫画「島義勇伝」でも描かれています。

 

有名な円山公園の桜は島を弔うために植えられた桜がきっかけであったと言われています。

 

最後に

島義勇が北海道で開拓使判官の任についていた期間は数ヶ月でした。
その期間で計画を立て、開拓の道筋を創りました。

 

就任しても解任される点を見ると、一見無謀で乱暴な印象を感じます。
しかしその功績と人望は今に伝わっています。

 

それはその土地の人と発展のために一生懸命であったからこそであると感じます。
その使命感の強さに感銘を受けます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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