真木和泉(まきやすおみ)、幕末や明治維新の小説やドラマには尊王攘夷の志士らの間の重鎮として登場します。

 

どんな生き方をした人物かご存知でしょうか?

 

年齢や志士らの関係を察するに、早くから尊王攘夷を志した人物であることは推測できるかと思いますが、私も詳しく知りませんでした。

 

その人生をたどると、決してあきらめない姿勢で尊王攘夷をけん引した人物であったことがわかってきます。

 

今回は真木和泉の生き方から学んでいきたいと思います。
どうか最後までお付き合い下さい。

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真木和泉守保臣とは

1813年、筑前久留米藩にある水天宮の神職という、他の尊王攘夷の志士とは毛色が違う家柄に生まれました。

 

10歳の頃神職の跡継ぎとなり、20歳の時に和泉守となります。
5尺8寸と非常に大柄な体格で、武道と学問はもちろん、和歌や音楽にも優れていました。

真木和泉の像

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

水戸学に強い関心を持ち、30歳を超えてから水戸藩に行って学びます。
江戸にも遊学して見聞を広め、尊王の志を強めていきます。

 

尊王攘夷の思想が確立されてくると、藩主に対して改革を提言しますが、却下されるばかりか蟄居処分を受けます。

 

蟄居期間は10年ほどにおよびますが、尊王攘夷への考えや想いは強まるばかりであったと言います。

 

その間書籍を書いており、全国的にも有力な尊王攘夷、倒幕の指導者となっていきます。
「大夢記」、「義挙三策」などが有名です。

 

復帰すると脱藩して長州藩と共に行動し、長州藩の志士の道しるべ役となります。

 

土佐藩の武市半平太、長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞なども影響を受けました。
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真木は数々の攘夷活動を計画し、当時の尊王攘夷の志士たちの先導役となる働きを見せます。

 

薩摩藩大久保利通と国父の島津久光の上洛を計画したり、有馬新八らと公武合体派の関白や京都所司代の暗殺を計画しました。

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寺田屋事件が起き、真木も捕えられますが、真木はあきらめません。

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禁門の変を計画し、その首謀者の一人として加わります。
戦うことを決意する来島又兵衛に対し、最後まで反対した久坂でしたが、真木の一言で久坂も、そして長州藩の志士たちが決意しました。

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禁門の変は真木がいなければ起きなかったかもしれません。

 

敗れる長州ですが、真木はここでもあきらめません。
戦地から逃げることに成功しますが、幕府軍に追い詰められて最期は自決しました。52歳でした。

 

楠木正成(くすのきまさしげ)を崇拝

楠木は勤王思想を強く持っており、その思想は水戸学に大きな影響を与えた人物です。
水戸学を学ぶ者たちの大先生と言って過言ではありません。

 

真木は幼少の頃から楠木の書籍を読むなどして、楠木の思想、生き方に強く影響を受けました

 

真木和泉の墓

真木の墓は京都の大山崎町の天王山に、最期を共にした十七烈士と一緒に墓と碑が建立されています。

 

また、福岡の久留米市の水天宮内に真木神社が建立されています。

 

真木和泉の子孫

真木は妻睦子と19歳の頃に結婚しました。
二人の間には二男一女が生まれています。

 

また、今なお天王山のお墓で十七烈士の子孫らと共に、弔いをしているようですので、真木の子孫は健在であると思われます。

 

最後に

10年もの蟄居期間があったにも関わらず、真木は決してあきらめず、思考と魂を燃やし続けました。

 

結果としてその時の行動が当時代表する尊王攘夷の指導者として確立させました。
その後も何度失敗してもあきらめず、ひた向きに尊王攘夷に生き続けます。

 

志半ばで倒れましたが、真木の思想の影響を強く受けた長州藩士を始めとする志士たちにより、倒幕がなされ、その後新国家が建設されました

 

そのあきらめない姿勢、ひた向きな生き方に感服します。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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